私が大切に思っている本の中の一冊に、こんな一節があります。
かつて日本人は、「かなし」を、「悲し」とだけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。悲しみにはいつも、愛しむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことができない何かが宿っているというのである。
『悲しみの秘義』若松英輔
また、先日読んだ本でも、こんな一節に出会いました。
人生のなかで愛おしく感じている何かで、悲しみの色合いをまったく含まないものを探すのは、なかなか難しいです。
『アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT) 第2版 〜マインドフルな変化のためのプロセスと実践〜』
スティーブン・C・ヘイズ、カーク・D・ストローサル、ケリー・G・ウィルソン
監訳:武藤崇、三田村仰、大月友
悲しみは、不思議なもので、嬉しい時や楽しいひとときにもそこにいて、ハッとさせられることがあります。
また、人の笑顔や喜びのその向こうに悲しみを感じることもあります。
「100年後には、この中の誰も、この世には存在していないんだな」
家族と一緒にいる時、ふとそんなことを思う時があります。
そして、悲しみと寂しさが入り混じったような気持ちをを感じます。
本当に大事なもの、美しいものは、儚く、ゆえに、愛しさを深く感じれば感じるほど切なくなります。
でもそれは、ネガティブなものではなく、むしろ、なんとも言えないとても幸せな体験です。
また、なにかを失った悲しみに打ちひしがれるなかで、自分が幸せだったと気づくこともあります。
「かなしみ」を感じる時、それは、そこに何かとても大事なものが存在しているという証なのかもしれないと思うのです。
そして、人には、こうした「かなしみ」の経験を通してしか得られないものがあるのかもしれません。
「心の琴線」という言葉があるように、誰の胸のうちにも「心の弦」と呼ぶべきのもがある。悲しみを経験した人は、その弦に自分の心情だけでなく、自分以外の人の悲しみを響かせることができるようになる。そして、それはいつの日か、朽ちることのない他者への「思いやり」の泉へと姿を変じていく。
『「生きがい」と出会うために 神谷美恵子の命の哲学』若松英輔
わたしの「心の弦」が奏でる音は、あなたにはどんなふうに聞こえるのでしょうか。
そして、あなたのなかの「心の弦」はどんな音色をしているのでしょうか。
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